アスピリン打って

ジャニ、舞台、タバコのこととか

2年後、またあなたのうちわが持ちたい

やっぱり好きみたいです、室龍太。こばやしです。


9/28担降り記念日だったんです。
なので、すこし龍太くんとの思い出を話そうと思います。

2014春松竹、わたしはとある関西Jrに一目惚れをしました。公演が終わって、友達に頭を下げて待ってもらいネカフェに滑り込んだ。もちろん理由はうちわ用の文字を出力するため。(まだこの頃の松竹座はうちわ持てた。)
そして、難波のLOFTで素材を買って、ホテルでうちわを作った。ホストの名刺みたいだと言われた。確かに。
そして次の日前列花ブロに入ったわたしは彼からファンサをもらってこの子を担当にする、と決めた。

東京に帰ってくると、毎日手紙を松竹座楽屋気付で書いた。松竹座公演が終わるまで2週間、毎日欠かさず書いた。あなたが好きです、あなたと未来を見たいです。

そして公演が終わって、3/28消印の返信が届いた。
好きな音楽はJIN AKANISHIとL'Arc~en~Ciel。あー意外と普通の男の子だ。と思った記憶。
でも、彼はそれ以降、なににも出ることはなかった。まいジャニにも、キスマイ京セラにも。
キスマイ京セラがめちゃくちゃ席がよかった。スタンド5列とかそれくらいでとにかく目線くらい。わたしのうちわは、誰にも見てもらえなかったし、見る人がいなかった。
夜行バスの時間が近づいて、ダブルアンコが終わってすぐ出口に走った。

「ゆっくんのバカ!!!!!!!!!!!!!!」

確かにわたしは出口に走る足を止めて、ステージに向かって叫んだ。夜行バスはお通夜状態。
わたしの元担、楠本幸登が、事務所を辞めた。

なにも出来なかった、バイトも、勉強も、全部全部出来なかった。
だからなにも考えず、せめて寂しくないように現場に通いまくった。キラキラ光るステージ、煌びやかな衣装に、上がる歓声。でもそこには、誰もいなかった。
色んな人のうちわを持った。ファンサが欲しかった、寂しくて、誰かの視界に入りたかった。持ったのは真鳥、丈一郎、淳太。
みんな、ファンサをくれたけど、どれもしっくり来なくて、台風nDreamerの日生公演がはじまった。

ただ虚無感だけがそこにあって、手元にはチケットが無数にあった。
ただ、ストーリーをなぞるだけ。誰が出てるかもわからない。そんなとき友人に「ほら!室龍規の弟出てるじゃん!?」と言われた。
あれ?あの子、龍規くんの弟だっけ?顔変わりすぎじゃない?なんて思いながらも、次に入る時から室龍太しか見れなかった。

特に意味はない。彼の1言で揺らいだのは確かだけど、その日わたしは友達に「わたし、今日から室龍太担として生きてく」と言った。友達は笑ってた。
友達は腰掛だと思ってたし、わたしも腰掛けだと思ってた。
だから、こんな長く続くと思わなくて。
気づけば、うちわを持っててファンサが貰えるのが当たり前だった。
気づけば、うちわがなくてもファンサが貰えてた。
女ネタには落ち込んだし、キスマークつけてステージに上がったのはいまでも許せない。
だけど、やっぱ好きだった。本当に好きだった。

滝沢歌舞伎が決まった時は、大袈裟だけどワンワン泣きながら喜んだ。
彼が望んで飛び込んだ世界、そこから見える景色はどう?綺麗かな?大変だったね、でも、ありがとう。満足したよ。

だから、わたしは龍太くんから離れた。
わたしは満足すると降りるタイプだ。実際三宅健萩谷慧悟も満足して担降り、ないしは飽きてほかを探した。

龍太くんがくれた思い出がありすぎて、なんでわたしは龍太くんになにもしてあげられないんだろうってずっと思ってた。キモオタだから。
でも、龍太くん、本当にすきだよ、ありがとう。

山PのLovelessがやっぱり地雷。
いままで、ありがとう。これからも世界一だよ!!!!

1ヶ月と4日間のできごと

初夏を知らずに夏が来ました、こばやしです。

6/29から1ヶ月と4日間、ちょっくら入院してきました。
忘れないように、もう二度とあんな気持ちにならないように書き留めます。

28日は1日、病院を探してました。なぜなら、いままで通っていた病院の主治医への不満が爆発してしまったから。
6年通った、その心療内科はわたしを突き放したから。わたしは、新しい病院を探してました。
28日の夜、新橋で友達と飲んだわたしは終電で帰ろうと乗り換え駅についた時、いままでに感じたことのないくらい大きな自殺願望で身体中が震えた。
最終の電車が見えた時、確かに聞こえた。自分の声だった。「飛び込んだら?死ねば楽になるよ。」確かに聞こえて、線路に引っ張られる感覚がして、怖くなって駅を飛び出してタクシーに乗り込んだ。
友達や母親には「終電を逃したからタクシーで帰る」と伝えた。
深夜1時すこし前に家に着いて、覚えてないくらい大量の睡眠薬と安定剤を飲んだ。致死量ほどの薬は持っていなかったかは、せめて、忘れられるくらい、深い眠りが出来る様に。
倒れるみたいに寝たわたしは、終電をホームで待つ夢を見た。
やっぱり夢でも自分の声が聞こえた。死ねば楽になるよって言われ続けて、わんわん泣きながら目を覚ました。

そこからはあまり記憶がなくて、気づいたら病院のベッドに手足胴体を拘束されていた。
近くにいた看護師に「ここの最寄り駅はどこですか?」と聞いて、頑張れば歩いて帰れる距離だ、なんて妙に安心した記憶。
でもほとんどパニックで覚えてない。なにか、苦い薬を飲まされた。本当に苦かった。あとから聞いたら、その苦い薬は幻覚幻聴を抑える薬だったらしい。
その薬を飲んですぐ、わたしは眠った。苦い薬の副作用だとあとから聞かされた。(大量の眠剤の効果も切れてなかったのもあるかも?)
そしてわたしは、医療保護入院として、強制入院をさせられた。

6/29 5:16 医療保護入院、及び身体拘束

29日はずっと眠っていた。ご飯がくると起こされた、でも食べられないくらい眠かった。異常なくらいの眠気だった。
ちなみにご飯のときの拘束は足だけにしてくれる。手首には拘束の痕がついてた。
次の日、わたしの主治医だと名乗る先生がきた。なにも考えられなくなってたわたしは、先生の言葉の意味がわからなくて窓の外をずっと眺めてた。
「いま何時ですか?」と先生に聞いた。先生は時間を教えてくれた。先生はそれでもわたしベッドの隣の椅子に座って、わたしのことを見続けた。なにを質問するわけでもなく、ただそこにいるだけだった。
「いま何時ですか?」一回目に聞いた時よりも30分近く時間が経過してた。わたしのことだけをじっと見てた先生が動いたのは、先生の呼び出しがかかったから。先生は「また来ますね」と言って、個室病室を出ていった。その時気づいたんだけど、わたしの部屋には鍵がかかっていた。
身体拘束されてるのに、なぜ鍵をかけるのか。
その身体拘束が解放されたのは2日後の7/1。

身体拘束が解放されて、わたしは大部屋のある階に移された。ここまでほぼ飲まず食わずで、点滴のつけられた腕がとても重かった。
わたしの入院してた病院は完全なる閉鎖病棟だった。タバコはもちろん、電子機器の持ち込みはできず、外に出るには医者の許可が必要で、最初のうちは電話すらできなかった。
その頃、もうなにもやる気がおきなかった。テレビをつけたまま、ベッドの上でぼうっとして、窓から見える歩道橋を眺めてた。もちろん、同室の人とのコミュニケーションなんてとれるわけもなく。食事の時間になると入院患者全員同じ部屋に呼ばれそこで食べるのだが、そこに行く気にもなれず、看護師さんが呆れた顔をしながら食事を持ってきても食べることはなく、なかなか点滴がはずれなかった。
ビニールに入った薬を、飲まされる。看護師さんの目の前で飲んでからじゃなきゃ部屋には戻れなかった。

徐々に病院に慣れてきた頃に、先生から電話と面会の許可がおりた。

7/4 電話、面会許可

2日後、看護師さんからテレフォンカードを受け取って、母に電話をした。1週間ぶりに、先生と看護師さん以外の人と会話をした。
母は「寂しいね、がんばろうね」とわたしを励ました。漠然と抱えてた気持ちが「寂しい」ということに気づいて、わたしは声をあげて泣いた。

7/9 16:30面会

母は16:35に面会室にやってきた。面会室は3畳くらいの狭くて暑くて、なぜか煙草臭い部屋だった。(後にその部屋が元喫煙室だと知る)
面会が終わる頃に、担当の保健師さんがきた。「お母さんの評価で、今後の治療方針が変わります。この後、お母さんに電話をして面会での菜恵さんの様子がどうだったかを聞きます。」とのこと。

次の日、先生が昼前に来た時、外出外泊をして外の環境に体を慣らしていきましょう、と言った。

7/10 外出、外泊許可

その頃には病院に慣れていて、食事もしっかりとれて、薬をもらうのにナースステーション横に並ぶことにも慣れていた。
ただ、甲殻類アレルギーのためたまに食事が質素だったり、献立には鳥の唐揚げと書いてあるのに、わたしに出たのは唐揚げ味の鳥のソテーだったり、そんなことに文句を言えるようにはなっていた。
同室の人ともコミュニケーションをとれるようになっていたし、会話をする人も増えてきた。

担当の保健師さんは、めちゃくちゃかわいかったけど、愛想がなかった。わたしと同い年くらいなのに人生に急いでる感満載。どこのチークを使ってるの?てくらいチークの発色がよかった。

7/11 任意入院へ切り替え

任意入院に切り替える時に書類にサインをした。ということは、母が「退院させてやってください」とでも言えばいつでも退院できる環境に切り替わった。
と言っても病院での生活はなにも変わりはしなかった。
それくらいに、その週の日曜日に、たった3時間だが外出が決まったことを知った。

外出だったり外泊をするのに、迎えが必要な人と、必要のない人がいた。なんの違いだろうか。

7/16 13:00 入院してはじめての外出

暑かった。とにかく暑かった。本当に暑かった。
2週間クーラーの効いた部屋にずっといたから、太陽の日差しすら嬉しくて、ずっと浮かれていた。
母に「お祓いにいこう」と言ったので、人生初お祓いに行ってきた。
どうやらわたしは方位災難なんちゃらというのに当てはまったみたいで、1番長い幼馴染は厄年だったから、ちょっとそいつのこともお願いしといてあげた。
駅の近くのカフェでお茶をした。当たり前の様にタバコに火をつけた瞬間、あまりの不味さに「は!?」と言った。
ヘビースモーカーだったわたしがタバコが不味くて吸えなくなった、ある意味での記念日だ。
16時に病院に戻ると、母は近くに住んでいる弟の家に行った。たまたま運び込まれた病院が弟の家までチャリで3分くらいだと知って少し笑った。

その日は驚くほど早く寝た。
もちろん眠剤は飲むけどね。いままで眠剤は10錠くらい飲んでたけど、あの病院に入院して2.5錠まで減った。そこまで減ったのに前よりもすぐに寝れるし、ぐっすり寝てた。

土曜の朝、相変わらず生き急いでるような保健師さんが部屋にやってきて、日曜日から1泊の外泊が決まったと言った。遅くなってごめんなさい、と言ってたけど、遅すぎる!さすがに遅すぎる!
そしてその日、社会復帰のプログラムをやっている看護師さんが話しかけてきた。所謂デイケアというのをオススメされて一蹴りした。自分に絶対的な自信があるわけではないけど、「わたしは病気を公表して仕事をするつもりはありません」とだけ伝えた。

7/23 10:30〜7/24 14:00 外泊

地元のバーミヤンで台湾まぜそばを食べたらお腹を下した。そうだ、わたしグルテンアレルギーだ忘れてた。
ちなみにその日は入院さえしてなきゃ、長野にいる予定だった。
でも、3週間ぶりの家は落ち着かなくて、ずっとソワソワしてた。あと、タバコ臭かった。
久々にオタクしたし、なにより今期のドラマを見まくった。コードブルー最高かよ!!!!!!???????新田真剣佑窪田正孝のも楽しいね!!!!!
久々の自宅に興奮して、なかなか眠れなかった。
次の日、病院に戻るのは本当は嫌だった。また、あの閉鎖病棟に閉じ込められると思うと涙すら出そうだった。でも戻るしかないから。
月曜日の昼過ぎに病院に戻った。家から持ってきた大量の本を抱えて。
そしてまた退屈な毎日が始まる。

病室に戻ると先生がきた。「退院に向けて話をしてきましょうね。」わたしはもちろん笑った。でも前に別の看護師さんに言われた言葉をうっすら思い出してた。「この病院は退院が早いから、しっかりアフターケアをしなきゃ再入院率が高くなる」それだけは嫌だ。

病院での生活は朝8時に起きて、朝食を食べる、薬を飲んで、部屋に戻ってテレビをつける。
入院中は日テレしか見なかった。朝一番最初に見るテレビはスッキリ!で、その次はPON!、キューピー3分クッキングがはじまったらデイルームに移動してお昼ご飯を食べる。お昼ご飯を食べ終わったらヒルナンデス。
だいたいこの頃に、部屋担当の看護師さんがやってくる。「お通じはありますか、ご飯は食べれてますか、寝れますか、困ってることや不安なことはありますか、いま死にたいとかそういう気持ちはありますか」を聞いてくる。厄介な看護師さんもいた。「死にたいってどんなとき思いましたか、その時のこと思い出したりしますか」と根掘り葉掘り聞いてくる。厄介だった。
ヒルナンデスが終わるとミヤネ屋がはじまる。ミヤネ屋は入院生活中飽きずにずーっと船越英一郎松居一代の離婚騒動について取り上げていた。後半正直もうどうでもよくなってた。ミヤネ屋が終わるとnews everyがはじまる。小山って偉いなって思った。
そして、その頃には病院内の人間関係が面倒くさくなってたりもした。小学校みたいだった。

わたしが入院してた病院の退院は、定員制だった。1日の退院人数が決まってた。
外泊から戻る時に母が木曜日で退院するように調節をしてたから、わたしはてっきり木曜日に退院できるもんだと思ってたら、まさかの木曜日ではなかったわけで。
木曜日になって漸く、担当の保健師さんから退院日が決まったと言われた。

7/27 退院日決定(入院から4週間経過)

特に誰に言うわけでもなく、作業療法士が教えてくれたヨガをベッドの上でやっていた。立ってやるヨガをベッドの上でやっていたら、看護師さんがすっ飛んできて危ないから立たないで!と怒られた。

この頃にはもう色んな物事に余裕を持つことができた。
病院の患者たちにあだ名をつけたし(眠り姫とか宗教とかワンワンとか)、同室の方の主治医が花男のころの松潤ソックリで「道明寺」と呼んだり(しかも脚長の8等身。道明寺がくるとナースステーションの看護師さんたちが華やぐ)、高橋一生大倉忠義を足して色気を抜いたような保健師さんを見て「残念やな、彼はモテそうもないわ」とボヤいたり、身体拘束されてた頃にお世話になった看護師さんが大橋和也に似てたから「はっすん」と影で呼んだり、ちなみに主治医はGENERATIONSの数原龍友くんをすこし丸くした感じだったからそれはそれで楽しくやってた。

退院前日、患者と喧嘩をした。看護師さんたちもわたしをフォローするくらいには、わたしは100%悪くない喧嘩だった。それで退院まで12時間ちょっとしかないのに部屋を変えてもらった。ただひたすら恐怖でしかなかった。取り乱して泣いて、看護師さんたちに無理やり安定剤を飲まされた。それでも気持ちが昂って眠れなくて結局追加の頓服をもらった。

7/31 12:00退院

退院の朝、ベッドから落ちて目が覚めた。なんだかずーっと落ち着かなくて、安定剤を飲んで、いつもの日テレ固定でテレビを見てた。
お昼ご飯が11:45からだったけど、母が外で食べようと言うのでお昼ご飯は止めてもらってた。豚バラ大根だった。美味しそう…
わたしは最後の最後まで本を読んでた。

外に出て、母に「大丈夫?」と聞かれた。
本で重くなった荷物を抱えて笑った。
「もうこんなとこ来たくない」

こういうことは言うべきではないんだろうけど、わたしの腕には無数の傷がある。もちろん母はそれに悲しんで、わたしを責めたし、母は自分自身をも責めてた。心療内科を勧めたのは母だ。「心に病気を抱える人との接し方」みたいな本が本棚に隠されるように置いてあったときはショックが大きかった。わたしは心に病気を抱えてるの?と母を責めた。でも、実際はそれか真実で、病識があったほうがよっぽど楽なのだ。
入院前、病院巡りをしてるとき、母はずっと傍にいてくれた。だから、たくさん辛い想いをさせてしまった。(そりゃぁ医者はわたしの腕を見て「自傷なんかはありましたか?」と聞いてくるわけだから)
それでもわたしが死を選ばなかったのは、間違いなく母や弟がいたからだ。世界で一番大切な人達を悲しませたくなかったからだ。
手首を切ることなんて簡単さ、電車に飛び込むことも、首を吊ることも、仕事をするより簡単だ。でもそれをしないのは、大切な人たちがそばにいてくれたからだ。
それが、入院生活の中でわかったこと。

7年かけてようやく病名がついた話

もう何軒病院巡りしたか覚えてません、こばやしです。

今日は千葉まで来ました。評判のいい精神科があると聞いたので。
まずは相談員さんにここに来た経緯、症状を説明。その後先生と問診だったのですが女性の先生でした。

ざっくり言うと、入院を勧められました。
閉鎖病棟スマホ持ち込み禁止。いや、さらに病むわ。
現実的な話、入院するにはお金がかかる。だから母は働かなくてはいけないから毎日は会いに来れない。と。いや、もっと病むわ。

病名は「情緒不安性人格障害」と「統合失調症」でした。
なんだかスッキリした気分。

これで少しでも治療方針がしっかり決まればいいな、とは思う。
死にたい、という気持ちはまだなくならない。死んでいいならいますぐ死ぬし、カッターを渡されれば躊躇なく手首を掻っ切る。
くそめんどくせえこの病気と付き合っていかなくてはならない。めんどくせえ

仕事を辞めたあとの話

すっかりLDHの女になりました、こばやしです。

仕事を辞めて1週間くらい経ちました。
わたしは療養が嫌いなので、いま仕事を探している最中です。
そんな日常を書き留めたいと思います。

まずは、前回のブログを読んだのか誰かから聞いたのかわからないけど、母にお叱りを受けました。わんわん泣くわたしを抱きしめながら「泣きたいのはこっちのほうだよ」と母は言いました。

そこからわたしは自分の感情をコントロールできなくなりました。
いつも、どんなときもイライラしてる。不安が傍にいる。
いますぐにでも死にたい、わたしなんか生きてる価値がない、と自分を責め立てるようになりました。
母がこんな悲しそうな顔をするのは、わたしが生きてて厄介をかけてるからだ、と。
お金も底を尽きて、さらに心は荒んで、叫びたい気持ちを抑えるので精一杯で周りなんか見ることができなくて。
イライラを抑えるためか、煙草も増えた。お酒は飲めなくなった。感情が露わになるのが怖いから。

心療内科の先生には全部言った。
自殺未遂をしたこと、いまも死にたいこと、いますぐにでも背後から刺されたいこと、精神安定剤を飲んでも飲んでも効かないこと、夜まったく眠れなくなったこと。
先生は抗うつ剤を処方してくれた。人生二回目の抗うつ剤
前に処方してもらったときは、自傷癖が出てたときだった。そのときは自傷癖が馬鹿らしくなって、すぐに抗うつ剤から離脱することができた。
だから怖い。わたしは抗うつ剤で本当に精神が安定するのだろうか。

自殺防止の電話?にも電話した。
なんの解決にもならなかった。
いっそ、入院でもして自殺をしたいという感情が消えるまで監禁してほしい。

こんなに辛いのに、みんな、自分のキャパで、わたしの辛いを測る。
わたしは、わたしのキャパで、わたしの辛いをわかってくれる人と、話がしたい。
こんなにも辛いのに、誰もわかってくれない。

電車に飛び込みかけて仕事を辞めた話

貯金ゼロ、パスモにチャージしてる800円、煙草2箱で就職活動してます、こばやしです。

さて、タイトルにあるように仕事を辞めました。
通販サイトでの業務でしたが、別に激務ではなかったし、同期とも仲良くして特に不満のある仕事ではなかったのですが、今日付で、辞めてきました。
それはなぜか、という話をしたいと思います。

異変を感じたのは5月5日。世間はGW、わたしは仕事。
目眩が酷くて真っ直ぐ歩けなくなりました。低血糖症持ちなので、低血糖かな、と思い飴を舐めながら仕事をしてました。でも治らないんだよね、その目眩が。とりあえず多めに糖分を摂ったりして。
そして世間のGWが終わった5月9日、コール部にぶち込まれたわたしはお客様からの電話を取りました。

「お電話ありがとうございます、テクニカルサポート担当のこばやしでございます。」

左耳にヘッドセットをしてたのですが、反響してくるはずの自分の声が聞こえない。なんなら、お客様の声も聞こえない。
慌ててヘッドセットを右耳につけ直して対応をしました。
そして上司に相談し、早退をさせてもらうことに。
いま思うと、5日のときよりずっと目眩は酷くなってて、壁に手をついてなきゃ歩くことができなかった。
まぁその時点で病名は薄々分かってたんだけど。
耳鼻科に行って検査をした結果、ついた病名は
突発性難聴
でした。
ストレスによるもの、なんてよく言うよね。
目眩も、真っ直ぐ歩けないのも突発性難聴のせいでした。
ストレスなく働いてたつもりだったんだけどな。なんかショック。

そしてわたしは突発性難聴と共に仕事をすることに。
完治に2週間半。その間はずっと薬を決められた量飲み、飲み忘れがないようメモ書きを残したり。色々しました。
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↑こんな感じ。

突発性難聴が治りかけた頃、わたしの睡眠障害が悪化。
元々眠前薬として毎晩11錠薬を飲んでいましたが、心療内科で3錠追加され、それでも安定した眠りを確保することができませんでした。

それと同時期、食欲がなくなり、食べれば吐きを繰り返すようになった。(おかげで痩せた)
ただの夏バテ的なアレだと思ってたんだけど、なんだか感じたことのない不快感を食道や喉に感じるようになった。
汚い話をするけど、寝てたら急にゲロがせり上がって来て、それに叩き起されトイレダッシュする夜が続いた。おかげでまぁ寝れねぇ。寝不足でおはよう☀なんて感じだ。
病院に行ったら胃薬を処方された。先生には「これでよくならなかったら、消化器内科に行ってね。」と言われた。

それが5月末の話。それくらいから精神的におかしくなりはじめた。

電車のホームに立ってるとフラフラしてしまう、電車が目の前を通過する瞬間に意識が飛ぶ。
要は、無意識に走ってる電車に飛び込もうとしてた。
1度だけサラリーマンに助けられた。ふわっと意識が飛んで前に倒れようとしたのを、後ろに立ってたサラリーマンに腕を掴まれ、そこで意識がハッキリとした。
サラリーマンはわたしに怒鳴った。よく覚えてない。でも、わたしはそのサラリーマンに助けられたのだ。
その日はそのまま帰ることにした。会社に電話しようとしたら、胃酸がせり上がってきてそのまま吐いた。
その時フと、胃薬を処方した先生の言葉を思い出した。あー消化器内科いこー

消化器内科の先生に「2週間前からこの症状が出てる」と言ったら「よく耐えたね」と言ってくれた。
わたしがあの会社に勤めて、はじめて褒められたことだった。
逆流性食道炎
と診断され、その週末に胃カメラを飲んだ。

友達には「ストレスのWコンボ」だったり「満身創痍すぎる」だったり色々言われた。
いま思うと、すごい、その言葉が、重荷になってた。

逆流性食道炎と診断されたわたしは会社に「仕事をしっかりしたいから、療養としてしっかりと病気を治すために仕事を休ませてくれ」とお願いをした。
でも会社はそれを飲んでくれなかった。研修に入るから楽になるから、とか、薬しっかり飲んで治せば大丈夫でしょ、とか。

いや、そうじゃねえよ。
研修入っても、吐くためにトイレにこもってたら意味はない。薬を飲んでも、しっかり治すためにはそれなりの時間とそれなりの空間が必要だ。
わたしはその旨も全部伝えた。それでも休みはくれなかった。
咄嗟に出た言葉が

「じゃあ仕事辞めさせてください」

だった。ビックリした。もちろん上司は渋った。

「だから、仕事辞めさせてください」

休ませてくれないなら、辞めさせてください。
わたしは、言ってしまえば自殺未遂までしてる。もちろん上司にそのことも伝えた。
でもそのまま上司はどこかに行ってしまった。

その後何度も何度も、電車に飛び込もうとした。今度はしっかり意識があった。
飛び込めば楽になれる、飛び込めば仕事に行かなくて済む、飛び込めば死ねる。頭の中はその言葉でいっぱいだった。
家族にも言えず、1人抱えたその言葉の重みに何度も押し潰され、でもその考えはわたしの頭の中から消えなくて。
手首を切ろうか、それともベランダから飛び降りてみようか、でも、せめて綺麗な姿で死にたい、電車に飛び込んでバラバラな姿になるのは嫌だな、なんて思いながら毎日元気に自殺未遂。

そして遂に昨日、上司に呼び出され告げられた言葉は簡単に言ってしまえば「クビ」だった。
ありがたかった。こんなにも幸せになったのはいつぶりだろうと思うくらい。
やっとわたしの言ってることの重みが、会社に伝わった。

お世話になりました。Amazonさん。

母の日

新生活なんとかやってます、こばやしです。

先に言っとくけど、わたしは特別複雑な家庭環境ってわけではないし、両親は円満離婚(笑)だと思ってる。

ただ、わたしには母が二人いる。

育ての親と生みの親と言い方は分けてはいるが、わたしはその二人に24年間育てられた。

特に深く考えたことはない。単純にわたしには母が二人いるわけだ。
母と慕ってる人、ではない、母、が二人いる。

そんな二人の母は、こんな面倒くさいわたしをいつだって受け止めてくれて、全力の愛を注いでくれて、そこから咲いた花はこんなに立派に咲き誇ってるわけだ。

さらにわたしには誕生日が1日違いの双子の兄弟もいる。向こうはそうは思ってないみたいだけど。
これまた複雑な家庭環境というわけではないが、彼のことはもう家族だと思ってるし、妹、弟だっている。
これも、二人の母が与えてくれた世界一の家族なわけであって。

24年間も一緒にいるから、もうわかるんだ、大抵の事は、顔を見ればわかる。
あ、喜んでる、とか。面倒くさそうにしてる、とか。疲れてる、とか。

ずっと一緒にいるからこそ気づかないこともたまにある。
たまに、だけどね。

もう1度言うが、わたしには母が二人いる。
特別複雑な家庭環境ではないし、母と慕ってるのではなく、わたしには実の母が二人いる。

そんな二人は巻き爪が痛かったり、お店を経営しててんやわんやだったり。

だから、母の日に伝える愛も2倍になって、伝えたいことも2倍なのだ。

ありがとう、ここまで育ててくれて。
愛してるから、これからもよろしく。長生きして、ばぁばになって、みんなでもっともっと幸せになろうね。
鮭ならイクラ、ニシンなら数の子、カエルならカエルでも、もうなんでもいいや。またあなた達の子として、産まれたい。
心から、ありがとう。

新しい仕事に新生活、あとは不思議な出会い

転職しました、こばやしです。

新しいお仕事は、通販サイトに関することなのですが、あまりにも新しいことすぎてずっと驚いてます。
なんでわたし面接通ったんだろう…ってくらい、わたしには荷の重すぎる仕事だな、と思いました。

去年の9月頃のブログ。そこで「わたしは環境の変化に弱い」と書いたのですが、いままさにそのド真ん中にいます。
新しい環境って、どうしても憂鬱で、慣れるまでが大変で、慣れたら慣れたで飽きてしまう。そんなクソみたいなわたしですが、どうにか頑張っていこうかと思います。どうにか頑張ってしがみついて。
なんで前の仕事辞めたんだろう、なんて思わないように。

不思議な出会いを求めて、わたしは明日も働きます。
頑張ります。