アスピリン打って

ジャニ、舞台、タバコのこととか

1ヶ月と4日間のできごと

初夏を知らずに夏が来ました、こばやしです。

6/29から1ヶ月と4日間、ちょっくら入院してきました。
忘れないように、もう二度とあんな気持ちにならないように書き留めます。

28日は1日、病院を探してました。なぜなら、いままで通っていた病院の主治医への不満が爆発してしまったから。
6年通った、その心療内科はわたしを突き放したから。わたしは、新しい病院を探してました。
28日の夜、新橋で友達と飲んだわたしは終電で帰ろうと乗り換え駅についた時、いままでに感じたことのないくらい大きな自殺願望で身体中が震えた。
最終の電車が見えた時、確かに聞こえた。自分の声だった。「飛び込んだら?死ねば楽になるよ。」確かに聞こえて、線路に引っ張られる感覚がして、怖くなって駅を飛び出してタクシーに乗り込んだ。
友達や母親には「終電を逃したからタクシーで帰る」と伝えた。
深夜1時すこし前に家に着いて、覚えてないくらい大量の睡眠薬と安定剤を飲んだ。致死量ほどの薬は持っていなかったかは、せめて、忘れられるくらい、深い眠りが出来る様に。
倒れるみたいに寝たわたしは、終電をホームで待つ夢を見た。
やっぱり夢でも自分の声が聞こえた。死ねば楽になるよって言われ続けて、わんわん泣きながら目を覚ました。

そこからはあまり記憶がなくて、気づいたら病院のベッドに手足胴体を拘束されていた。
近くにいた看護師に「ここの最寄り駅はどこですか?」と聞いて、頑張れば歩いて帰れる距離だ、なんて妙に安心した記憶。
でもほとんどパニックで覚えてない。なにか、苦い薬を飲まされた。本当に苦かった。あとから聞いたら、その苦い薬は幻覚幻聴を抑える薬だったらしい。
その薬を飲んですぐ、わたしは眠った。苦い薬の副作用だとあとから聞かされた。(大量の眠剤の効果も切れてなかったのもあるかも?)
そしてわたしは、医療保護入院として、強制入院をさせられた。

6/29 5:16 医療保護入院、及び身体拘束

29日はずっと眠っていた。ご飯がくると起こされた、でも食べられないくらい眠かった。異常なくらいの眠気だった。
ちなみにご飯のときの拘束は足だけにしてくれる。手首には拘束の痕がついてた。
次の日、わたしの主治医だと名乗る先生がきた。なにも考えられなくなってたわたしは、先生の言葉の意味がわからなくて窓の外をずっと眺めてた。
「いま何時ですか?」と先生に聞いた。先生は時間を教えてくれた。先生はそれでもわたしベッドの隣の椅子に座って、わたしのことを見続けた。なにを質問するわけでもなく、ただそこにいるだけだった。
「いま何時ですか?」一回目に聞いた時よりも30分近く時間が経過してた。わたしのことだけをじっと見てた先生が動いたのは、先生の呼び出しがかかったから。先生は「また来ますね」と言って、個室病室を出ていった。その時気づいたんだけど、わたしの部屋には鍵がかかっていた。
身体拘束されてるのに、なぜ鍵をかけるのか。
その身体拘束が解放されたのは2日後の7/1。

身体拘束が解放されて、わたしは大部屋のある階に移された。ここまでほぼ飲まず食わずで、点滴のつけられた腕がとても重かった。
わたしの入院してた病院は完全なる閉鎖病棟だった。タバコはもちろん、電子機器の持ち込みはできず、外に出るには医者の許可が必要で、最初のうちは電話すらできなかった。
その頃、もうなにもやる気がおきなかった。テレビをつけたまま、ベッドの上でぼうっとして、窓から見える歩道橋を眺めてた。もちろん、同室の人とのコミュニケーションなんてとれるわけもなく。食事の時間になると入院患者全員同じ部屋に呼ばれそこで食べるのだが、そこに行く気にもなれず、看護師さんが呆れた顔をしながら食事を持ってきても食べることはなく、なかなか点滴がはずれなかった。
ビニールに入った薬を、飲まされる。看護師さんの目の前で飲んでからじゃなきゃ部屋には戻れなかった。

徐々に病院に慣れてきた頃に、先生から電話と面会の許可がおりた。

7/4 電話、面会許可

2日後、看護師さんからテレフォンカードを受け取って、母に電話をした。1週間ぶりに、先生と看護師さん以外の人と会話をした。
母は「寂しいね、がんばろうね」とわたしを励ました。漠然と抱えてた気持ちが「寂しい」ということに気づいて、わたしは声をあげて泣いた。

7/9 16:30面会

母は16:35に面会室にやってきた。面会室は3畳くらいの狭くて暑くて、なぜか煙草臭い部屋だった。(後にその部屋が元喫煙室だと知る)
面会が終わる頃に、担当の保健師さんがきた。「お母さんの評価で、今後の治療方針が変わります。この後、お母さんに電話をして面会での菜恵さんの様子がどうだったかを聞きます。」とのこと。

次の日、先生が昼前に来た時、外出外泊をして外の環境に体を慣らしていきましょう、と言った。

7/10 外出、外泊許可

その頃には病院に慣れていて、食事もしっかりとれて、薬をもらうのにナースステーション横に並ぶことにも慣れていた。
ただ、甲殻類アレルギーのためたまに食事が質素だったり、献立には鳥の唐揚げと書いてあるのに、わたしに出たのは唐揚げ味の鳥のソテーだったり、そんなことに文句を言えるようにはなっていた。
同室の人ともコミュニケーションをとれるようになっていたし、会話をする人も増えてきた。

担当の保健師さんは、めちゃくちゃかわいかったけど、愛想がなかった。わたしと同い年くらいなのに人生に急いでる感満載。どこのチークを使ってるの?てくらいチークの発色がよかった。

7/11 任意入院へ切り替え

任意入院に切り替える時に書類にサインをした。ということは、母が「退院させてやってください」とでも言えばいつでも退院できる環境に切り替わった。
と言っても病院での生活はなにも変わりはしなかった。
それくらいに、その週の日曜日に、たった3時間だが外出が決まったことを知った。

外出だったり外泊をするのに、迎えが必要な人と、必要のない人がいた。なんの違いだろうか。

7/16 13:00 入院してはじめての外出

暑かった。とにかく暑かった。本当に暑かった。
2週間クーラーの効いた部屋にずっといたから、太陽の日差しすら嬉しくて、ずっと浮かれていた。
母に「お祓いにいこう」と言ったので、人生初お祓いに行ってきた。
どうやらわたしは方位災難なんちゃらというのに当てはまったみたいで、1番長い幼馴染は厄年だったから、ちょっとそいつのこともお願いしといてあげた。
駅の近くのカフェでお茶をした。当たり前の様にタバコに火をつけた瞬間、あまりの不味さに「は!?」と言った。
ヘビースモーカーだったわたしがタバコが不味くて吸えなくなった、ある意味での記念日だ。
16時に病院に戻ると、母は近くに住んでいる弟の家に行った。たまたま運び込まれた病院が弟の家までチャリで3分くらいだと知って少し笑った。

その日は驚くほど早く寝た。
もちろん眠剤は飲むけどね。いままで眠剤は10錠くらい飲んでたけど、あの病院に入院して2.5錠まで減った。そこまで減ったのに前よりもすぐに寝れるし、ぐっすり寝てた。

土曜の朝、相変わらず生き急いでるような保健師さんが部屋にやってきて、日曜日から1泊の外泊が決まったと言った。遅くなってごめんなさい、と言ってたけど、遅すぎる!さすがに遅すぎる!
そしてその日、社会復帰のプログラムをやっている看護師さんが話しかけてきた。所謂デイケアというのをオススメされて一蹴りした。自分に絶対的な自信があるわけではないけど、「わたしは病気を公表して仕事をするつもりはありません」とだけ伝えた。

7/23 10:30〜7/24 14:00 外泊

地元のバーミヤンで台湾まぜそばを食べたらお腹を下した。そうだ、わたしグルテンアレルギーだ忘れてた。
ちなみにその日は入院さえしてなきゃ、長野にいる予定だった。
でも、3週間ぶりの家は落ち着かなくて、ずっとソワソワしてた。あと、タバコ臭かった。
久々にオタクしたし、なにより今期のドラマを見まくった。コードブルー最高かよ!!!!!!???????新田真剣佑窪田正孝のも楽しいね!!!!!
久々の自宅に興奮して、なかなか眠れなかった。
次の日、病院に戻るのは本当は嫌だった。また、あの閉鎖病棟に閉じ込められると思うと涙すら出そうだった。でも戻るしかないから。
月曜日の昼過ぎに病院に戻った。家から持ってきた大量の本を抱えて。
そしてまた退屈な毎日が始まる。

病室に戻ると先生がきた。「退院に向けて話をしてきましょうね。」わたしはもちろん笑った。でも前に別の看護師さんに言われた言葉をうっすら思い出してた。「この病院は退院が早いから、しっかりアフターケアをしなきゃ再入院率が高くなる」それだけは嫌だ。

病院での生活は朝8時に起きて、朝食を食べる、薬を飲んで、部屋に戻ってテレビをつける。
入院中は日テレしか見なかった。朝一番最初に見るテレビはスッキリ!で、その次はPON!、キューピー3分クッキングがはじまったらデイルームに移動してお昼ご飯を食べる。お昼ご飯を食べ終わったらヒルナンデス。
だいたいこの頃に、部屋担当の看護師さんがやってくる。「お通じはありますか、ご飯は食べれてますか、寝れますか、困ってることや不安なことはありますか、いま死にたいとかそういう気持ちはありますか」を聞いてくる。厄介な看護師さんもいた。「死にたいってどんなとき思いましたか、その時のこと思い出したりしますか」と根掘り葉掘り聞いてくる。厄介だった。
ヒルナンデスが終わるとミヤネ屋がはじまる。ミヤネ屋は入院生活中飽きずにずーっと船越英一郎松居一代の離婚騒動について取り上げていた。後半正直もうどうでもよくなってた。ミヤネ屋が終わるとnews everyがはじまる。小山って偉いなって思った。
そして、その頃には病院内の人間関係が面倒くさくなってたりもした。小学校みたいだった。

わたしが入院してた病院の退院は、定員制だった。1日の退院人数が決まってた。
外泊から戻る時に母が木曜日で退院するように調節をしてたから、わたしはてっきり木曜日に退院できるもんだと思ってたら、まさかの木曜日ではなかったわけで。
木曜日になって漸く、担当の保健師さんから退院日が決まったと言われた。

7/27 退院日決定(入院から4週間経過)

特に誰に言うわけでもなく、作業療法士が教えてくれたヨガをベッドの上でやっていた。立ってやるヨガをベッドの上でやっていたら、看護師さんがすっ飛んできて危ないから立たないで!と怒られた。

この頃にはもう色んな物事に余裕を持つことができた。
病院の患者たちにあだ名をつけたし(眠り姫とか宗教とかワンワンとか)、同室の方の主治医が花男のころの松潤ソックリで「道明寺」と呼んだり(しかも脚長の8等身。道明寺がくるとナースステーションの看護師さんたちが華やぐ)、高橋一生大倉忠義を足して色気を抜いたような保健師さんを見て「残念やな、彼はモテそうもないわ」とボヤいたり、身体拘束されてた頃にお世話になった看護師さんが大橋和也に似てたから「はっすん」と影で呼んだり、ちなみに主治医はGENERATIONSの数原龍友くんをすこし丸くした感じだったからそれはそれで楽しくやってた。

退院前日、患者と喧嘩をした。看護師さんたちもわたしをフォローするくらいには、わたしは100%悪くない喧嘩だった。それで退院まで12時間ちょっとしかないのに部屋を変えてもらった。ただひたすら恐怖でしかなかった。取り乱して泣いて、看護師さんたちに無理やり安定剤を飲まされた。それでも気持ちが昂って眠れなくて結局追加の頓服をもらった。

7/31 12:00退院

退院の朝、ベッドから落ちて目が覚めた。なんだかずーっと落ち着かなくて、安定剤を飲んで、いつもの日テレ固定でテレビを見てた。
お昼ご飯が11:45からだったけど、母が外で食べようと言うのでお昼ご飯は止めてもらってた。豚バラ大根だった。美味しそう…
わたしは最後の最後まで本を読んでた。

外に出て、母に「大丈夫?」と聞かれた。
本で重くなった荷物を抱えて笑った。
「もうこんなとこ来たくない」

こういうことは言うべきではないんだろうけど、わたしの腕には無数の傷がある。もちろん母はそれに悲しんで、わたしを責めたし、母は自分自身をも責めてた。心療内科を勧めたのは母だ。「心に病気を抱える人との接し方」みたいな本が本棚に隠されるように置いてあったときはショックが大きかった。わたしは心に病気を抱えてるの?と母を責めた。でも、実際はそれか真実で、病識があったほうがよっぽど楽なのだ。
入院前、病院巡りをしてるとき、母はずっと傍にいてくれた。だから、たくさん辛い想いをさせてしまった。(そりゃぁ医者はわたしの腕を見て「自傷なんかはありましたか?」と聞いてくるわけだから)
それでもわたしが死を選ばなかったのは、間違いなく母や弟がいたからだ。世界で一番大切な人達を悲しませたくなかったからだ。
手首を切ることなんて簡単さ、電車に飛び込むことも、首を吊ることも、仕事をするより簡単だ。でもそれをしないのは、大切な人たちがそばにいてくれたからだ。
それが、入院生活の中でわかったこと。